Something for Structural Engineering

建築土木の構造工学と,その周辺

The City Dark

私は目が悪い。視力の低さは遺伝だと思って諦めていたが、ここ数年PCの見すぎなど目を酷使したせいか定期的に眼科に通わなければならない。視力もこれ以上落ちることはないだろうというところまで来ている。視力低下が視覚喪失につながることはないらしいが、気を付けていないと使い物にならなくなる。


夜、例えばコンビニに入るとき、私はとても辛い。理由は、コンビニの蛍光灯が明るすぎて眩しいからだ。瞳孔が正常な機能を果たしていないのか、慣れるまでしばらくかかる。そして目が痛くなる。都会の街を歩く時もそうだ。目立ちたがりの看板や屋外広告たちがこれでもかというほど光っていたり照らされていたりして、結局どれも目立っていない。私は地面を見るしかない。




秋になり、これからの季節はイルミネーションやライトアップが話題となる。街路樹や建物を電飾でぐるぐる巻きにし、壁面をカラフルに照らし出す。夜長の楽しみ方の一つではあると思う。しかし、膨大なエネルギーを使い、植物に負担をかけ、雰囲気の演出以外に特に効果のない電飾を毎晩のように点灯し続けることに、私は違和感しか抱かない。それが綺麗だと感じることはほぼ皆無である。光の正しい使い方とは何だろう、と疑問が湧いてくる。


そういった都会に溢れる光源がとても気になるのは今に始まったことではない。幼少期はどちらかと言えば田舎の、かといって過疎地というわけでもない、中途半端な地方で育った。それでも冬に夜空を見上げれば、なかなかの星空だった。都会に出てきて空を見上げても星は見えない。高層ビルが乱立しているため、視認できる面積としても狭いこともある。星よりも眩しいものが多すぎる。


http://essentiallight.jp/thecitydark/


The City Darkという映画を知ったのは、照明デザイナーである岡安泉さんのお話を聞いた時だった。前述のように、私は街に溢れる光源が気になっていた。もちろんそこに専門性など何もない。ただただ、個人的な引っ掛かりである。照明計画は何かの基準で明るさの単位が定められ、それに基づく数字が何かしら決められている。それに従って設備設計者らが光源の決定を行う場合が多いのだろう。しかし近年は視覚的効果を狙った商店やインスタレーションなどで照明を用いることが増えてきたらしい。照明とは電気的な光である。強さや色などはその波長や対象物を変化させることで調整可能である。いわゆる人工物である。技術として既にあるものに新たな概念や思考を加えることが照明デザイナーの仕事ではないかと感じた。新たな、とはいえ、それはとてもシンプルな、物理現象に忠実なものである。忠実であればあるほど美しい。


明るい街は安全である、というのはある側面では正しいのだろう。暗闇を無くし、いつでもどこでも明るい街にはきっと楽しいことがたくさんある。何も不自由しない。とても便利だ。かくいう私もその恩恵に預かっていないわけではない。しかしそれは本当に必要なものなのだろうか。光源を正しく有効に用いているのだろうか。個人の注意力で補えるものではないのだろうか。楽しさや便利さと引き換えに、我々は何を失ったのだろうか。健康上の問題も多々あるだろう。自然に対する畏敬の念もそうだろう。この数100年程度で人間の生活は大きく変化し、現状として我々にとって当たり前であることも、人間を含む生命の進化がそれに対応出来ていないほど速いスピードで更新されている。得るものは多い。だがその大半が表面上のものだろう。一瞬の浅い快楽や利益のためのものではないだろうか。


夜空を見上げる。そこには無数の星があって月も綺麗だ。それが当たり前のことであってほしい。街でイルミネーションで華やかっぽく飾るよりも、いっそのこと街の光源を全て消して、自動車も全て停止して暗闇で無音のなか夜空を見上げる方がよっぽど心を動かされるはずだ。虚偽の華やかさよりも真実の美しさを見たい。暗闇の向こう側には何があるのかを考えたい。


全くの余談だが、光源と暗闇という言葉からこのパフォーマンスを思い出した。

数年前からあるし、XperiaのCMでも用いられていたのでご存知の方も多いと思う。このような光源と暗闇を有効に使った演出はとても好きだ。もちろん演出に音楽が使われているので純粋に光源と暗闇のみではない。だがこの短いパフォーマンスで人々に知的興奮を与えるには必要なものだろう。


こんな短い文章を打つだけでもう私の眼球が悲鳴を上げている。人口の光は害である。少なくとも私にとっては。昼夜関係ない生活は、あまりにもリスクが高い。これは本当に豊かな社会なのだろうか。健康を失うような進化を遂げてきた現代の技術は、もうベクトルの向きを変えなければならないのに、いつまで高度成長期のようなことをしているのだろうか。